2011年05月25日

熱闘編がスタート



いよいよ、熱闘編がスタートしました。
毎朝の楽しみが復活して、うれしい限りです。
再開第一回は、なんと奥様とのロマンス。
OBの方々が一様に、もっとも苦労したのは夫人と語っていましたから
このほほえましいエピソードには笑みがこぼれます。

今回の連載では、箕島高校の黄金期が描かれるようですから
あの頃の熱い思いを懐かしく回想される方も多いでしょうね。

例えば、こんな方
 当時の事を良く覚えています。私は中学1年生でした。
 まさにテレビにかぶりつき状態でした。ファーストフライで
 ああ、終わりだな、と思った瞬間、エラーで命拾いをして、
 その後まさに起死回生のホームランで追いついた時は
 もう全身ゾクゾクッときました。
 最後の最後まであきらめない、本当にその大切さを教えてくれた
 素晴しい試合でした。
 今息子が少年野球をしていますので、いつか見せたいと思っています。

これは小川真由さんのブログによせられたものですが、
こんな思い出を持っている方がたくさんいらっしゃるでしょう。

そういえば、春にオープンした本町の「和歌山スポーツ伝承館」で
箕島高校の春夏連覇の映像が見られるようですね。
近々、いってみたいと思ってます。

写真は、青春編をまとめた冊子で、朝日新聞を新規契約すると
もらえるものだそうです。
字が大きくて、スクラップしたものより読みやすいという人もいました、
でもやっぱり、リアルタイムに読んでスクラップすることに値打ちがある
と思うのは年代の相違でしょうか?  


Posted by 一球入魂 at 11:36Comments(0)

2011年04月06日

wev新書でベストセラー?

朝日新聞に連載された「尾藤魂」第一部が、
web新書で第六位というニュース。
http://bob2010.ikora.tv/e575574.html

さすが尾藤元監督は全国区。
県外の方の読みたいという声に応えたものでしよう。
連載記事を一気に読めるのはうれしいですが、
できれば、紙で読みたい気もーーー

こちらで購読できます。
http://astand.asahi.com/webshinsho/asahi/asahishimbun/product/2011031000014.html  


Posted by 一球入魂 at 14:39Comments(2)

2011年03月23日

優勝に届いた心





今日が第一部「青春編」のラスト。
まさか、連載スタートからわずかの間に
尾藤さんの訃報を聞くことになろうとは
ブログをはじめたときは思いもよりませんでした。

でも、このことが尾藤元監督の偉大さを再認識することになり、
尾藤さんを知らない世代にも、
そのメッセージが伝わっていくのではと思います。
そしてこの連載記事が尾藤さんの生き様を伝える
より深い意味を持ちはじめたとも思えいえるのではないでしょうか。

今日の記事からも学ぶところは多いです。
初優勝の時のことを当時のキャプテン東田和也さんは、
こう振り返っていました。

 レギュラーの小南が試合直前に骨折して、
 控えの捕手の中谷はあまり試合経験がないキャッチャーでしたから、
 大変なことになったと思いました。
 しかしその分、みんなで一丸となって
 カバーして頑張ろうとなりましたね。
 尾藤さんも、経験の浅い中谷をみんなでカバーしてやろうと
 強くおっしゃいました。
 ただ、優勝には届かないだろうという思いがどこかにありました。
 でも、一戦一戦勝つために頑張って、
 結果的に優勝できたんです。

そんな一戦一戦が描かれた今日の「尾藤魂」。
広陵戦で東田選手にかけた「気にせんでええぞ」という一言や
北陽との決勝戦、延長10回裏の森下選手へのヒットエンドランのサイン、
12回の島本選手の決勝打も、10回に三振したときにかけた
「みんなが同点にしてくれるからーー」から生まれたのではないか、と
東田さんの次のような言葉を聞きながら思います。

 尾藤さんのすごさは、選手の能力をうまく引き出すというところ。
 大きな舞台になればなるほど、選手の力を引き出してやる。
 これは尾藤さんだけが持っているものですね。

さぁ、第2部のスタートが待ち遠しいですね。
(写真は、多分初優勝のときのものではないかとーー?)  


Posted by 一球入魂 at 13:00Comments(3)

2011年03月22日

尾藤スマイルは永遠に

昨日の朝日放送の特番「尾藤スマイルは永遠に」は、
今更ながらに尾藤さんの存在の大きさを感じさせるものでした。
こんなカタチで、今まで知らなかった映像を見るのも
なんとも微妙な気分ではありますがーーー

さて、20日の連載でさらっと「エース東尾が扇風機をつけたままうたたねしーー」と
いう件ですが、東尾さんはこんな風に回想しています。

 春は甲子園ベスト4まで行きながら、
 高校最後の夏はあっけなく終わった。
 和歌山大会直前、練習で疲れて扇風機に当たって寝てしまい、
 ひいたことのない風邪をひいて2日間入院。
 万全とはいえない状態で迎えた2回戦だった。

 相手は星林。昨年まで楽天の2軍監督を務めた松井優典
 (元南海=現ソフトバンク、ヤクルト)、現NPB事業部長の
 東出康博(元南海)と、のちのプロ野球選手が2人いた。

 前年の和歌山県秋季大会決勝で破ってはいるが、
 この年のセンバツにともに出場した強敵だ。
 3−2と1点リードで迎えた9回表に守備の乱れで追いつかれ、
 その裏の攻撃だった。二塁走者が三塁へ盗塁。
 マスクをかぶっていた松井の三塁悪送球でサヨナラ勝ちと思ったら、
 星林のアピールで守備妨害と判定された。

 二塁走者の生還は認められず、延長戦に突入。
 11回表、走者を1人置いて私は生まれて初めて
 フェンス越えのホームランを浴びた。
 3−5。あっさり敗退した。

さて、本日登場の島本講平さん。
後の甲子園では、甘いマスクで日本中の女性を虜にした
といわれるほどの才色兼備(?)





写真は南海にドラフト一位で入団したときのもの。
あの野村監督が「チームに人気がないから、島本で人気アップを狙う」と
いったとか、いわないとか。
尾藤元監督の青春はまだまだ続きますよね(?)  


Posted by 一球入魂 at 19:06Comments(1)

2011年03月16日

甲子園へ

東日本大震災のニュースにやりきれない日々が続きますが
「尾藤魂」を読む間だけは、少しばかり癒されます。

箕島高校の甲子園初出場が決まった年、
その頃を東尾修さんはこう回想しています。

 甲子園が身近に感じられるようになったのは
 2年生の夏。和歌山大会決勝まで行った。

 私は5番・ライト。のちに東海大から住友金属に進む
 1級上の川端理史さんがエースだった。

けれども、この時は市和商(現市和歌山)に0対2で
破れています。相手チームの投手は、この年ドラフトで
阪神から1位指名を受けた野上敏夫さんでした。


 新チームになって背番号1。学校の方も力を入れ、
 秋季大会の前に初の県外遠征として岡山と東京に出してくれた。

 岡山東商、日大三高、早実といった甲子園常連校と互角に戦い、
 ちょっとした自信になった。 
 迎えた本番。和歌山大会決勝で星林を4対3で下して優勝し、
 滋賀県大津市で開かれる近畿大会に駒を進めた。

 滋賀県大津市の皇子山球場で行われた秋の近畿大会。
 セ ンバツ出場が懸かったマウンドで私は快投を続けた。

 まずは11月19日の1回戦。東山(京都)を相手に4四球は
 与えたものの10三振を奪い、ノーヒットノーランを達成した。
 打っては5番打者としてホームランを含む4打数3安打3打点。
 投げて打って6− 0の決勝に貢献した。

 23日の2回戦(準々決勝)では甲賀(滋賀)を1−0で下した。
 2回無死三塁か ら私の左犠飛で1点を奪い、これを守り切った。
 2四球の走者を許しただけで、8奪三振ながら、
 またも被安打0に迎えた。2試合連続のノーヒットノーラン。
 初めて全国紙の記者の取材を受けた。

 ベスト4進出。もうセンバツ出場はよほどのことがない限り
 間違いない。翌年は第40回記念大会で出場校枠が24から30に
 広がる。近畿の4強なら安全圏内だった。
 甲子園出場が事実上決まったのと同時に、うれしかったのが
 琵琶湖のほとりの旅館にそのまま滞在できたことだ。

 秋季大会は土日祝日に行われ、1回戦は日曜日。
 2回戦は勤労感謝の日。準決勝・決勝は26日の日曜日に行われる。
 大津は和歌山県から通えない距離じゃないが、
 帰ってもまたすぐ行くことになる。
 「帰ってこんでええ。ずっと泊まっとけ」ということになったらしい。

 何かの大会と重なって九州への修学旅行に行けなかった野球部員に
 とっては修学旅行代わり。
 私は西鉄(現西武)に入ってオープン戦で卒業式にも出席できなかったから
 余計に覚えている。仲間と一緒に過ごす夜が楽しかった。

 準決勝の興国(大阪)戦では初回いきなり点を取られた。
 先頭打者に死球を与え、3番打者には初被安打となる右前打。
 盗塁もあって1死二、三塁から、のちにヤクルト、近鉄、西武でプレーする
 益川満育に三遊間を破られた。

 大会初失点。それでもこの最少失点でしのいだ。3−1の逆転勝ち。
 すぐにダブルヘッダーの決勝戦が始まった。
 中学卒業前にいったん入学を決めていた平安(京都)が相手。
 連投の疲れもあって序盤に5点を失い、2−5で敗れた。

 途中から外野に回った私は「あのまま平安に行っていたらどうなって
 いたんだろう」と思った。平安のエースは左の池田信夫。
 のちに東京(現ロッテ)のドラフト3位指名を拒否して
 法政大学—大昭和製紙と進み、現在は拓大一高の監督を務めている。

 高校の時点での力は池田の方が上。
 箕島から誘われることなく平安に入っていたら控え投手だったか、
 三塁手になっていたか。
 いずれにしてもエースとして甲子園のマウンドを踏むことはなかった。

これはスポニチの平成22年の連載から転載したものです。
(無断ですいません、でもとてもいい記事なのでーーー)

因みに、厳しい練習の中、東尾さんは
投手だけが命じられる校外ランニングのとき、
「コースにあるみかん畑で1個、2個いただいては
 のどの渇きを潤した」とも書いています。

同じ様なことを東裕司さんも語っていて、
打球がみかん畑に入ると取りに行って、いただいたりすると
監督に呼ばれ「おまえ食べたやろ」と指摘された。
ベンチに座っていてもサングラスの奥からちゃんと見られていた、と。
箕島らしいエピソードですね。  


Posted by 一球入魂 at 19:06Comments(1)

2011年03月14日

怖い監督

和歌山にも少なからず被害をもたらしている地震。
実は私も、金曜日の午後、東京でこの地震に遭遇し、
地震の恐さと東京という都会が麻痺していく様子を
実感して参りました。
ここまで帰ってくるのも、ちょっと大変でした。
被災者の方々のご冥福と1日も早い復旧、復興を
お祈りいたします。

さて、20代の若き尾藤さんが、青年監督としてキャリアを
積んでいく様子が伺われる連載「尾藤魂」。
この時期のことを東尾修さんはこう回想しています。

 2002年に廃止となった有田鉄道の金屋口駅から藤並駅まで行き、
 紀勢本線に乗り換えて箕島駅で降りる。
 通学時間帯は1時間に1本しかなく、2年生になってからは
 1本早い電車に乗って学校へ行ってグラウンドを走った。
 銀行を辞めて監督になった尾藤さんは昼まで米屋の配達をして
 午後は私たちを鍛えてくれた。
 若いし、とにかく張り切っている。練習は厳しく、きつかった。

そんな尾藤さんは後年、野球部の体罰について
「かつては私もやった」と打ち明け、こう語っています。
選手時代は捕手だった尾藤さん。走者を置いて打たれると、
投手ではなく自分がビンタされた。
「なんでおれが」と涙が出たが、でもそれを「暴力」「体罰」と
思わないほど、当たり前のことだった。
自分が指導者になっても、気がつけば同じことをしていた。
ノック前、捕手に言い含めておく。
「今日は『けつバット』するからな。痛そうにせえよ」。
そして内野手が気の抜けたプレーをすれば、代わりにたたいた。

「スマイルもけつバットも子どもと心を通じ合わせるためのもの、
相反するものではないと思ってきた」
そして
「体罰は容認すべきではないが、指導方法に明確な答えはない。
 いま大切なのは話す力をつけることだ」
と結んでいましたが、引退後のこの言葉にも
監督という立場の難しさを感じます。
青年期の尾藤監督は、いかに成長していったかー
これからも楽しみです。  


Posted by 一球入魂 at 15:39Comments(6)

2011年03月10日

栄光の始まり





昨日の葬儀の様子が今朝の朝日新聞朝刊で詳細に伝えられています。
しかもドキュメント。目頭が熱くなる紙面です。
長男の強さんの
 「父は、参列したみなさんと生涯のほとんどの時間を
  過ごしたことを喜んでいたと思う。
  しかし、家族との時間は、ほとんどなく、
  寂しい思いをした。
  父が初めて入院したときに父の時間を独占できた」
という挨拶や山下星稜総監督の
 「延長18回の試合のことが、ここ2日間、夢に出る。
  寂しい。宝物を失った」
というコメントが胸に染みわたりました。





そして、箕島高校野球部員に見送られた尾藤さん。

さて、
いよいよ東尾さんの自宅を訪れた今日の「尾藤魂」。
東尾さんは尾藤さんに箕島入りを進められたときのことを
こんな風に回想しています。

 中学3年生になってやっとエースになったが、
 せいぜい有田郡の大会で準々決勝がやっとだった。
 それでも甲子園には憧れた。学区内の県立校は
 耐久、箕島、吉備の3校。どこも強くない。
 県内に野球部のある私立は高野山しかなかった。

 近所に京都の平安で野球をやっている先輩がいて、
 そのお父さんが「修君もどうや?」と声を掛けてくれた。
 平安といえば名門中の名門。甲子園の常連校だ。  
 すっかりその気になった。「平安の試験に受かるのは大変」と
 尻を叩かれて猛勉強した。

 平安合格。京都の下宿を決め、布団も送った。
 郵便貯金の口座もつくった。
 卒業式を待つだけというときになって箕島高校の中島事務局長が
 今度監督になるという人を連れて自宅にやってきた。

 尾藤さんは当時23歳。熱心に誘ってくれるお二人を
 私より先にまず家族が受け入れた。

 特に祖父母。初孫の私はずっと2人の間で川の字になって寝ていた。
 かわいい初孫をずっと手元に置いておきたい祖父母を中心に
 家族がみんな箕島受験の流れになったころ、
 中島さんの決めゼリフで私の気持ちも決まった。
 「学校の裏にある有田川の堤防にバスをズラッと並べて甲子園へ行こうや」
 私は下宿を決め、ふとんまで送っていた平安進学を断念。
 急きょ箕島の入学試験を受けて合格し、
 自宅から約1時間かけて通学することになった。

これは平成22年にスポニチに連載されたもの。
「尾藤魂」には、こんなサイドストーリーもあるわけです。  


Posted by 一球入魂 at 10:56Comments(8)

2011年03月09日

お別れのとき2





今日の葬儀の様子が伝えられました。

 野球部OB会会長の児島昭人さん(60)が「甲子園という夢をありがとう」と
 弔辞を述べたあと、7日付朝日新聞朝刊に掲載された尾藤さんの評伝が読み上げら、
 日本高校野球連盟の奥島孝康会長、プロ野球ソフトバンクの王貞治球団会長、
 「ドカベン」の愛称で知られた元南海の香川伸行さんらの弔電が披露されたとのこと。
 箕島高校の野球部員約50人は、ユニホーム姿で参列。
 亡きがらは、星稜の山下智茂・前監督や、1979年の延長18回の試合で球審を務めた
 日本高校野球連盟顧問の永野元玄さんらの手で出棺されたそうです。

因に、昨夜の通夜には東尾修さんも訪れ、約1800人が参列したといいます。
今日も斎場の駐車場では足らずに、箕島高校のグランドにも車がぎっしりだったそうです。





改めて、合掌  


Posted by 一球入魂 at 14:40Comments(8)

2011年03月09日

お別れのとき






もうすぐ葬儀ですね。
昨夜の通夜にも多くの人がお焼香にいかれたようです。
今朝の新聞(和歌山版)には通夜の様子、OBの方々のコメントも掲載されています。
戒名は野球を究めた尾藤さんをたたえて「顕球院釋公道(けんきゅういんしゃくこうどう)」と
つけられたとか。野球に一筋に生きた尾藤さんらしい戒名ですね。

写真は、多分、遺影として飾られたものと同じだと思います。

通夜の記事に並んで、智弁和歌山の選抜壮行式の記事にも
「尾藤さん見守ってください」との見出しがあり、
そして再開なった「尾藤魂」。
複雑な思いが交錯しますが、「尾藤魂」の中では
在りし日のいきいきとした尾藤さんを知ることができ
この連載があってよかったと本当に思います。
何よりの供養かもー。

今日のエピソードにある前川さんが出場した春の甲子園では、
前年優勝の箕島高校は準決勝で福井商業に連覇の夢を断たれ、
夏の大会では三回戦で中京に敗退と記録が残っています。

さかのぼっていよいよ監督に就任した年。事務職員として野球部監督になった
というのも初めて知りました。
公立高校なのだから、私学のように監督を雇うということはできなかったのでしょうね。
さぁ次は、いよいよ有名な東尾さんを口説きに訪れる名場面なのでしょうか。  


Posted by 一球入魂 at 11:16Comments(0)

2011年03月08日

魂は甲子園へ





今夜はお通夜ですね。そさかし、多くの方々がお集りのことと思います。

今日の智弁和歌山の壮行式でも、
仁坂知事が「皆さんの甲子園での雄姿を楽しみにしています。亡くなった
箕島高校の尾藤公元監督も、きっと天国から応援してくれると思います」と
激励し、式では尾藤元監督へ黙祷を捧げたそうです。

高嶋監督は、和歌山放送のインタビューに答えて
「恩師です。超えることの出来ない偉大な人でした。
 箕島に追いつけ追い越せの思いで戦ってきた。
 一つでも多く勝つことが供養になると思う」
と語っていました。

きっと、尾藤元監督の魂も甲子園へ応援に駆けつけると思います。

お通夜にも、葬儀にも参列はできませんが、遠くからご冥福を祈りたいと思います。

合掌  


Posted by 一球入魂 at 18:16Comments(7)

2011年03月07日

尾藤さんの思い出





私などがあれこれ語るより、身近にいる方々は、このような場でなく
語り合っておられるのだろうと思います。
そして少しずつ、そうした声が聞こえてくるのだと思います。

尾藤さん周辺からの声が聞こえてくるブログです。
http://bibidibabidiboo.ikora.tv/c7422.html  


Posted by 一球入魂 at 20:00Comments(3)

2011年03月07日

偲んで





今朝の朝日新聞和歌山版では、ご自宅に駆けつけた弔問客の様子が伝えられ、
皆さんのコメントからは、在りし日を偲ぶ声、直前までお見舞いに行ったときの
ことを語る方々の、一様に残念な思いが伝わってくるようでした。





なかでも球史に残る戦いを繰り広げた星稜高校の山下智茂さんが、
みなべ町にいらしていたという偶然には、運命の糸を感じずにはいられません。
いままで、色々なエピソードを拾ってはここに記させていただきましたが、
今日の尾藤監督語録を拝見して、まだまだ知らないことがたくさんあることを
再確認した次第です。
和歌山版の語録はこちらでも見ることができます。
http://mytown.asahi.com/wakayama/news.php?k_id=31000001103070001

さて、いろいろな方が尾藤元監督を偲ばれていますが、
連載に寄せてこんなコメントもありました。
http://o-shige3.blogspot.com/2011/03/blog-post_4026.html
  きょう早朝、元箕島高校野球部監督 尾藤公氏が亡くなられたニュースが速報で流れた。
 高校野球界の名物監督として高校野球ファンには忘れられない名監督として、
 例の「尾藤スマイル」で知られ、高校野球・プロ野球界を通して多くの名選手を育て、
 公立高校にして春夏連覇を成し遂げたことでも知られる。
 監督引退後も多くの学校から尾藤監督の指導を受けたい要望が強く、
 また野球解説者としても活躍されたが、膀胱ガンが見つかり闘病生活をおくられ、
 車イス生活を余儀なくされていた。
  この2月20日から、朝日新聞(和歌山版)で毎日曜日に『尾藤魂』の連載が始まり、
 いよいよこれから監督としての記事が掲載される筈であっただけに、
 亡くなられたあとも是非掲載を続けて欲しいモノだ。

さらには、尾藤元監督の足跡を記した後にこんなコメントもー。
 「名物監督の時代」がひとつ、遠ざかっていった感がある。
 http://blog.livedoor.jp/ktu2003/

年齢とともに感じることですが、昭和が一つずつ、去っていくーーーと。  


Posted by 一球入魂 at 19:44Comments(6)

2011年03月07日

一夜明けて

当ブログにも多くの方から弔問のコメントをいただき恐縮至極です。

今朝の朝刊各紙、TVと、尾藤元監督が野球関係者にとって大きな存在であり、
いかに影響を与えてきたかを再確認する記事があふれています。
多分、様々なブログでも尾藤監督のことが語られていることでしょう。

その中でも、ちょっと目に止まったのが下記のもの。
「がんばれ社長」というメルマガを配信している
竹沢さんという経営コンサルタントのものです。
http://www.e-comon.co.jp/magazine_show.php?magid=3471

『ありがとう、尾藤監督』


●「踊りに行こうよ 青い海のもとへ 二人で唄おう 明るい恋のリ
ズム ・・・」

カーラジオから流れるザ・タイガース沢田研二の歌声。
1968年、14歳の夏休みに家族で海水浴に行った。車のラジオから流れ
るジュリーの声に当時若かった母はノリノリの上機嫌。中学2年の私も
小学6年の弟も夏休みを謳歌していた。(もっとも弟は車酔いで青ざめ
てはいたが)

●そこへ運転していた父が何を思ったのか、左手を伸ばしてラジオの
選局を変えてしまった。
スピーカーから流れてきたのは「ウォー」という大歓声。夏の高校野
球甲子園大会の実況中継だった。

「なによ、お父さん、せっかくいいとこなのに・・・」と母。父はい
つものように言葉すくなく「高校野球や」とだけ言った。

●しようがなくラジオに聞き耳を立てていると、箕島(みのしま)高
校の東尾修投手が投げていた。解説者がしきりに「東尾君、すごい」
と連発している。その年、初出場ながら箕島高校はベスト4まで進ん
だ。

●その秋、西鉄ライオンズ(現・西武ライオンズ)からドラフト一位
指名を受け、パリーグを代表するエースになる東尾投手。最近はプロ
ゴルファーの娘さんがタレントと結婚した。

●和歌山に箕島(みのしま)あり。

箕島高校はこの大会で鮮烈デビューし、のちに春夏あわせて四度の甲
子園全国制覇を果たす。
それは、ひとえに同校野球部の尾藤公(びとう ただし)監督の指導力
によるものと言いきっても良いだろう。

●もともとは京都の平安高校に行く予定だった東尾投手を「一緒に甲
子園に行こう」と口説きおとした。

「優勝を4回したが、ベスト4に終わった東尾のチーム(1968年)が最
強だった。それでも優勝できなかったのは自分の経験不足のため」と
語っている。

●その尾藤監督(68)が昨日亡くなった。
ぼうこう移行上皮がんだった。後輩監督が口々に悼んだ。

・智弁和歌山・高嶋仁監督(64) 
 ぼくも奈良の智弁学園から和歌山に来て、全然尾藤さんに勝てなく
 て、尾藤さんに勝ちたい一心でやってきた。今あるのは尾藤さんの
 おかげだと思っています。

・元PL学園監督の中村順司・名商大監督(64)
 あこがれの監督でした。僕が高校全日本の監督を務めた98年も選手
 選考で助けていただいた。そのとき、取材を受ける態度がよくない
 と言われていた敦賀気比の東出君(現・広島東洋カープ)を「彼は
 いい選手や。マナーは教えてやればいい」と勧めて下さった。実際
 好選手で、チームの中心でした。選手を見る目も素晴らしかった。

・帝京・前田三夫監督(61)
 私たちの目標であり、憧れの監督さんでした。「尾藤スマイル」で
 有名になられた方ですが、正直あんなに笑って試合に勝てて、いい
 なあと若いころはうらやましく思いました。それを目指してやって
 きましたが、なかなかスマイルは出せなかった。グラウンドでは優
 しい顔ですが、高校野球の姿勢には厳しい考えをお持ちでした。教
 育の一環として、常に「正しくあれ」という姿を追い求めていた。
 その心構えを教わりました。

・明徳義塾・馬淵史郎監督(55)
 大事なところで選手を信じてどっしり座り、笑顔が印象的だった。
 勝負に臨む時の顔が実にいい顔だった。こういう監督は2度と出な
 いかもしれない。

●箕島高校と79年夏の3回戦で激突した星稜高校(石川)。

延長18回の熱闘は、高校球史に残る名勝負といわれている。当時、星
稜高校の監督だった山下智茂氏(66)は、そのときの思い出をこう語
る。

「18回の激闘、出会いには感謝しかない。人生観、野球観を変えてく
れた人生の宝のゲームです。雲の上の方で僕には偉大すぎる方でした
が、その後も兄貴のように教えていただいて…」

●ちなみに尾藤監督は1966年、23歳の若さで監督就任し、スパルタ練
習によってわずか3年目の春に同校を甲子園へ導いた。
スパルタは成果があるように思えた。

だが、甲子園ベスト4のあとは成績が伸び悩んだ。そして1970年代前
半に指導法に対して信任投票があり、その結果責任をとって一度監督
を退いている。

●同校を退任したあとボウリング場に勤務し、接客業などで人間的に
学ばれた。そののち、再び乞われて箕島高校野球部監督に復帰してか
らは、選手の希望もあって練習の厳しさは変えないものの、試合中は
いつも笑顔で接するようにした。それによって選手達はのびのびとプ
レーできるようになったという。その微笑みは「尾藤スマイル」とし
て高校野球ファンにおなじみとなり、他校の高校野球指導者にも大き
な影響を与えた。

(中略)

●高校野球関係者だけでなく我々に与えた影響は計りしれない尾藤公
監督。ご冥福をお祈りいたします。

竹沢さんは名古屋の方、和歌山や高校野球に縁のある方ではないようですが、
だれもが尾藤元監督について語るべきものを持っている、と改めて感じ入っています。

合掌  


Posted by 一球入魂 at 15:14Comments(1)

2011年03月06日

ご冥福をお祈りします





ちょっと風邪で寝込んでいる間に、
尾藤元監督がお亡くなりになってしまいました。

えっ、ご自宅にお帰りになっていたのではーと、
しばし、呆然。今も言葉が見つかりません。

連載「尾藤魂」もこれからいよいよ監督時代へ、という時。
今朝の速報や、TVのニュースにも出ているようです。
これから、追悼番組やらいろいろな声がメディアにも
ででくると思いますがーー
よもや、こんなに早くとは思っていませんでした。





在りし日の姿をもう一度、
でも「尾藤魂」は不滅です。といいたい。

因みに、通夜は8日、告別式は9日に下記で行われるそうです。
フューネラル友浄会館 有田市箕島65-1

合掌  


Posted by 一球入魂 at 13:02Comments(16)

2011年03月02日

大学て学んだこと





今日の連載の近大で学んだという走者の挟殺方法が、
対星稜戦にも生かされていたのはびっくりでした。
こうした細かな戦術を練習でかっちりやっていたから、
粘りの箕島野球が生まれたんでしょうね。

次回予告ともいえる「野球規則」で思い出すのが、
箕島春夏連覇時のエース木村竹志(旧姓・石井毅)さんが語っていた
次のような回想。

 雨の日だと、ルールということに対して厳しく指導されました。
 それも優位に立つ一つだったと思います。
 ルールを知らないより、知っている方が相手により優位に立つ。
 相手に心理的なプレッシャーを与える野球を教えられました。

近大時代に学んだことが後の監督経験に役だったという尾藤さん。
大学時代に叩き込まれたという「野球規則」の中身を早く読みたい!

たくさんのコメントをいただき、私としてはうれしい限りです。
連載「尾藤魂」がすばらしいのは当たり前として、こうした私的な
ブログにも応援の声をいただけるのも、
多くの人が尾藤さんを気にかけていているからだと思います。
書いている私としては、どんなコメントでも、
読んでいただいているんだなーと、励みになります。
皆サーン、どんなことでもいいので、声をかけてくださいね。
(尾藤さんがこれを読まれている保証は有りませんがーーー)  


Posted by 一球入魂 at 17:24Comments(16)

2011年03月01日

監督の資質

 箕島高校の野球というのは、スーパースターがのいない時期が長かったが、
 ねばり強い野球というか、一点差で勝つゲームが伝統といわれるほど、
 せったゲームに強いチームだった。
 一点差で勝つ野球というのは、監督と選手との言葉には出せないけれども、
 通じあうものがないとできない。
 尾藤さんは、俺に任せといたら大丈夫やという頼りになる存在だった。

というような意味のことを、元箕島高校投手の東裕司さんが語っていましたが、
今日の連載を読むと、高校時代からすでにその萌芽があったのかと思います。

さて、延長戦といえば甲子園の箕島対星稜ですが、
その16回は星稜が一点リードでツーアウトを取り、
一塁へのファウルフライを一塁手が取り損ね、
直後に同点ホームランが飛びだしたという展開でしたが、
翌日の新聞に「星稜、悲運のつまずき」と書かれたという
人工芝に足を取られて転倒した一塁手は
瞬間、「このまま横になっていたい」と思ったといいます。
他の選手も、「早く試合が終わらないかな」としか考えてなかったという
談話もあります。それくらい、みんな疲れ切っていたのですね。
延長戦の戦いには、運も大きな要素であるのは確かです。
この星稜にはいろいろな後日談もあるのですが、
それはまたの機会に。

さて、尾藤さんの大学時代、今度はどんなドラマが起こったのでしょうね。  


Posted by 一球入魂 at 21:41Comments(7)

2011年02月27日

ほめて育てる





今日の連載の中にある尾藤さんのこんな一言

 「私の基本はほめて育てること。
  選手がどん底に落ちる前に、まず自信をもたせるんです」

とありますが、これに見合う発言を残している教え子はいないのではーー?
練習は厳しく、試合ではどーんと構えて安心感を与えるとか、
ベンチでニコニコしているが、試合後に細かなチェックが入るとかー
いえいえ、きっと悩んでいる選手にいろいろと声をかけたのだと思いますが
他の印象の方が皆さん強いのではと推察します。

でも、あるプログにこんなエピソードがありました。
漫才師のかつみは春夏連覇のメンバー、テレビで高校時代の箕島での野球部の
ことを真剣に語っていたことがあり、
最後の夏、みんなの投票で、ベンチ入りが決まるとき、
自分には、自分で入れた1票だけ。
その夜、自分のポジションのところにあおむけになって、一人で校歌を歌ったという。
その話を聞いた尾藤さんは
「あの子は足の速い子やった。押入れを整理していたら、
 昔のあの子の書いた野球ノートが出てきたんで、読み返したんや。
 結婚式のときに持っていったんやで」

すべての選手に目配りしていたことが伺われる話ですね。

尾藤さんの高校3年の夏といえば、
春の選抜には海南高が出場したが、2回戦で法政二高に破れています。
夏の和歌山大会の決勝では、新宮高が海南高を破ったものの、
紀和決勝で御所工業高に破れ、2年連続で甲子園出場を奈良勢に
譲ることになったと記録に有ります。

トンさんというニックネームや監督時代の体型から、
チーム1の俊足だったというのはイメージがわきにくいのですが
当時の写真を見れば、不思議はないかもー。  


Posted by 一球入魂 at 14:10Comments(13)

2011年02月26日

ファン多し



尾藤さんのノックにはかなりの迫力があったと、
かつて、東裕司さんは語っていました。

 ノックは相当うまい人でした。
 キャッチャーフライを真上にピーンと上げるとか、
 変化のついた打球を打つとか、相当な腕前でした。
 甲子園でも観客の人がウワァーと歓声を上げるぐらい
 驚いてましたから。

そんな打撃の腕は、高校時代の練習の後の
自分影を見ながらの素振り300回という地道な努力によって
培われていったのでしょうね。

くまみさんという方のブログに、こんなコメントが有りました。
http://kumami313.blog130.fc2.com/blog-entry-313.html

 題字が智弁和歌山の高嶋監督さんが書かれているのです
 尾藤さんに対する感謝の気持ちがこもった文字だと感じます。

 尾藤さん。
 病気との闘い、辛くて大変だと思いますが、
 みんな元気でおられる事を楽しみにしています。頑張って下さい


また「ゴン太の心」というブログでは、
http://blog.goo.ne.jp/gonta108k/e/fc26343d86030148fdd87d146621786e
少年時代、ラジオやテレビで見た箕島高校野球部の思い出に続いて、
こんな一分が添えられています。

 その尾藤監督も、今、身体中のあちこちを癌に冒され
 闘病生活を送っているという。
 「尾藤魂」序章と名付けられた2月20日付の記事を読んでいたら
 ボロボロと涙がこぼれてきた。
 この涙はなんでやろう?
 ファンとしてのみならず、指導者としても憧れの目で見てきた
 尾藤監督がもうすぐいなくなってしまうかもしれない・・・
 そんな思いがよぎったのか。

多くの人が「尾藤魂」に心を動かされている様子がわかります。
さて、明日は吉川監督からどんなアドバイスが有ったのか?
つつきが早く読みたい!!  


Posted by 一球入魂 at 11:26Comments(6)

2011年02月25日

ドラマは続く





「キャッチャーに必要なものは、目配り、気配り、思いやり」と語っていたのは
楽天でキャリアを終えた野村元監督。
氏はまたこんなことも語っています。
 「キャッチャーってのは、指1本のサインでも『あそこでもう1回、リードをやり直せれば……』と
  試合が終わった後に必ず思うもんなんですよ。特に負け試合では、その思いは強い」

もちろん、当時の尾藤急造捕手には、そんな余裕もなかったでしょう。
けれども、今日の成瀬元監督の言葉から、なぜ尾藤さんを急遽捕手に指名したのかが
わかったような気がします。

さらにドラマの予感が盛り上がる本日の結びの一文、
この頃のことは今まで語られていなかったと思うので、
毎日、新聞を開くのがわくわくします。

さて「ひろくん」さんから、下記のコメントをいただきました。

 尾藤さんも毎日このブログをご覧になっていらっしゃると思います。
 そこで、このコメント欄を通して、病と闘っている尾藤さんに励ましの声を届けませんか。

皆様、よろしくお願いいたします。  


Posted by 一球入魂 at 13:07Comments(7)

2011年02月24日

高校時代





和歌山県の高校球史を見ると、尾藤さんが箕島高校へ進学する前年は、
県立和歌山商が甲子園に出場し、1958年の夏の甲子園では海南高校が
準々決勝まで勝ち進んでいます。
県立和歌山商からの誘いに迷いはなかったのかとも思いますね。
また尾藤さんが3年生となった年から、和歌山大会が開会式から
全試合を和歌山放送が実況中継するようになったようです。





野球少年のすべてが憧れ、尾藤さんも三塁手を目指したという長嶋茂雄さんの勇姿。




当時の追っかけはこんな様子だったのですね。ファッションに時代をーーー

ところで本日の「捕手をやれ」というエピソードですが、
東尾修さんも中学で野球部に入ったところ、捕手をやらされたと語っていました。
「下級生は、空いたところをやらされる」とーー。
さて、高校1年の夏、尾藤捕手にどんなドラマがあったのでしょう。
明日が待ち遠しいです。  


Posted by 一球入魂 at 13:24Comments(4)