2011年03月07日
尾藤さんの思い出

私などがあれこれ語るより、身近にいる方々は、このような場でなく
語り合っておられるのだろうと思います。
そして少しずつ、そうした声が聞こえてくるのだと思います。
尾藤さん周辺からの声が聞こえてくるブログです。
http://bibidibabidiboo.ikora.tv/c7422.html
Posted by 一球入魂 at
20:00
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2011年03月07日
偲んで

今朝の朝日新聞和歌山版では、ご自宅に駆けつけた弔問客の様子が伝えられ、
皆さんのコメントからは、在りし日を偲ぶ声、直前までお見舞いに行ったときの
ことを語る方々の、一様に残念な思いが伝わってくるようでした。

なかでも球史に残る戦いを繰り広げた星稜高校の山下智茂さんが、
みなべ町にいらしていたという偶然には、運命の糸を感じずにはいられません。
いままで、色々なエピソードを拾ってはここに記させていただきましたが、
今日の尾藤監督語録を拝見して、まだまだ知らないことがたくさんあることを
再確認した次第です。
和歌山版の語録はこちらでも見ることができます。
http://mytown.asahi.com/wakayama/news.php?k_id=31000001103070001
さて、いろいろな方が尾藤元監督を偲ばれていますが、
連載に寄せてこんなコメントもありました。
http://o-shige3.blogspot.com/2011/03/blog-post_4026.html
きょう早朝、元箕島高校野球部監督 尾藤公氏が亡くなられたニュースが速報で流れた。
高校野球界の名物監督として高校野球ファンには忘れられない名監督として、
例の「尾藤スマイル」で知られ、高校野球・プロ野球界を通して多くの名選手を育て、
公立高校にして春夏連覇を成し遂げたことでも知られる。
監督引退後も多くの学校から尾藤監督の指導を受けたい要望が強く、
また野球解説者としても活躍されたが、膀胱ガンが見つかり闘病生活をおくられ、
車イス生活を余儀なくされていた。
この2月20日から、朝日新聞(和歌山版)で毎日曜日に『尾藤魂』の連載が始まり、
いよいよこれから監督としての記事が掲載される筈であっただけに、
亡くなられたあとも是非掲載を続けて欲しいモノだ。
さらには、尾藤元監督の足跡を記した後にこんなコメントもー。
「名物監督の時代」がひとつ、遠ざかっていった感がある。
http://blog.livedoor.jp/ktu2003/
年齢とともに感じることですが、昭和が一つずつ、去っていくーーーと。
Posted by 一球入魂 at
19:44
│Comments(6)
2011年03月07日
一夜明けて
当ブログにも多くの方から弔問のコメントをいただき恐縮至極です。
今朝の朝刊各紙、TVと、尾藤元監督が野球関係者にとって大きな存在であり、
いかに影響を与えてきたかを再確認する記事があふれています。
多分、様々なブログでも尾藤監督のことが語られていることでしょう。
その中でも、ちょっと目に止まったのが下記のもの。
「がんばれ社長」というメルマガを配信している
竹沢さんという経営コンサルタントのものです。
http://www.e-comon.co.jp/magazine_show.php?magid=3471
『ありがとう、尾藤監督』
●「踊りに行こうよ 青い海のもとへ 二人で唄おう 明るい恋のリ
ズム ・・・」
カーラジオから流れるザ・タイガース沢田研二の歌声。
1968年、14歳の夏休みに家族で海水浴に行った。車のラジオから流れ
るジュリーの声に当時若かった母はノリノリの上機嫌。中学2年の私も
小学6年の弟も夏休みを謳歌していた。(もっとも弟は車酔いで青ざめ
てはいたが)
●そこへ運転していた父が何を思ったのか、左手を伸ばしてラジオの
選局を変えてしまった。
スピーカーから流れてきたのは「ウォー」という大歓声。夏の高校野
球甲子園大会の実況中継だった。
「なによ、お父さん、せっかくいいとこなのに・・・」と母。父はい
つものように言葉すくなく「高校野球や」とだけ言った。
●しようがなくラジオに聞き耳を立てていると、箕島(みのしま)高
校の東尾修投手が投げていた。解説者がしきりに「東尾君、すごい」
と連発している。その年、初出場ながら箕島高校はベスト4まで進ん
だ。
●その秋、西鉄ライオンズ(現・西武ライオンズ)からドラフト一位
指名を受け、パリーグを代表するエースになる東尾投手。最近はプロ
ゴルファーの娘さんがタレントと結婚した。
●和歌山に箕島(みのしま)あり。
箕島高校はこの大会で鮮烈デビューし、のちに春夏あわせて四度の甲
子園全国制覇を果たす。
それは、ひとえに同校野球部の尾藤公(びとう ただし)監督の指導力
によるものと言いきっても良いだろう。
●もともとは京都の平安高校に行く予定だった東尾投手を「一緒に甲
子園に行こう」と口説きおとした。
「優勝を4回したが、ベスト4に終わった東尾のチーム(1968年)が最
強だった。それでも優勝できなかったのは自分の経験不足のため」と
語っている。
●その尾藤監督(68)が昨日亡くなった。
ぼうこう移行上皮がんだった。後輩監督が口々に悼んだ。
・智弁和歌山・高嶋仁監督(64)
ぼくも奈良の智弁学園から和歌山に来て、全然尾藤さんに勝てなく
て、尾藤さんに勝ちたい一心でやってきた。今あるのは尾藤さんの
おかげだと思っています。
・元PL学園監督の中村順司・名商大監督(64)
あこがれの監督でした。僕が高校全日本の監督を務めた98年も選手
選考で助けていただいた。そのとき、取材を受ける態度がよくない
と言われていた敦賀気比の東出君(現・広島東洋カープ)を「彼は
いい選手や。マナーは教えてやればいい」と勧めて下さった。実際
好選手で、チームの中心でした。選手を見る目も素晴らしかった。
・帝京・前田三夫監督(61)
私たちの目標であり、憧れの監督さんでした。「尾藤スマイル」で
有名になられた方ですが、正直あんなに笑って試合に勝てて、いい
なあと若いころはうらやましく思いました。それを目指してやって
きましたが、なかなかスマイルは出せなかった。グラウンドでは優
しい顔ですが、高校野球の姿勢には厳しい考えをお持ちでした。教
育の一環として、常に「正しくあれ」という姿を追い求めていた。
その心構えを教わりました。
・明徳義塾・馬淵史郎監督(55)
大事なところで選手を信じてどっしり座り、笑顔が印象的だった。
勝負に臨む時の顔が実にいい顔だった。こういう監督は2度と出な
いかもしれない。
●箕島高校と79年夏の3回戦で激突した星稜高校(石川)。
延長18回の熱闘は、高校球史に残る名勝負といわれている。当時、星
稜高校の監督だった山下智茂氏(66)は、そのときの思い出をこう語
る。
「18回の激闘、出会いには感謝しかない。人生観、野球観を変えてく
れた人生の宝のゲームです。雲の上の方で僕には偉大すぎる方でした
が、その後も兄貴のように教えていただいて…」
●ちなみに尾藤監督は1966年、23歳の若さで監督就任し、スパルタ練
習によってわずか3年目の春に同校を甲子園へ導いた。
スパルタは成果があるように思えた。
だが、甲子園ベスト4のあとは成績が伸び悩んだ。そして1970年代前
半に指導法に対して信任投票があり、その結果責任をとって一度監督
を退いている。
●同校を退任したあとボウリング場に勤務し、接客業などで人間的に
学ばれた。そののち、再び乞われて箕島高校野球部監督に復帰してか
らは、選手の希望もあって練習の厳しさは変えないものの、試合中は
いつも笑顔で接するようにした。それによって選手達はのびのびとプ
レーできるようになったという。その微笑みは「尾藤スマイル」とし
て高校野球ファンにおなじみとなり、他校の高校野球指導者にも大き
な影響を与えた。
(中略)
●高校野球関係者だけでなく我々に与えた影響は計りしれない尾藤公
監督。ご冥福をお祈りいたします。
竹沢さんは名古屋の方、和歌山や高校野球に縁のある方ではないようですが、
だれもが尾藤元監督について語るべきものを持っている、と改めて感じ入っています。
合掌
今朝の朝刊各紙、TVと、尾藤元監督が野球関係者にとって大きな存在であり、
いかに影響を与えてきたかを再確認する記事があふれています。
多分、様々なブログでも尾藤監督のことが語られていることでしょう。
その中でも、ちょっと目に止まったのが下記のもの。
「がんばれ社長」というメルマガを配信している
竹沢さんという経営コンサルタントのものです。
http://www.e-comon.co.jp/magazine_show.php?magid=3471
『ありがとう、尾藤監督』
●「踊りに行こうよ 青い海のもとへ 二人で唄おう 明るい恋のリ
ズム ・・・」
カーラジオから流れるザ・タイガース沢田研二の歌声。
1968年、14歳の夏休みに家族で海水浴に行った。車のラジオから流れ
るジュリーの声に当時若かった母はノリノリの上機嫌。中学2年の私も
小学6年の弟も夏休みを謳歌していた。(もっとも弟は車酔いで青ざめ
てはいたが)
●そこへ運転していた父が何を思ったのか、左手を伸ばしてラジオの
選局を変えてしまった。
スピーカーから流れてきたのは「ウォー」という大歓声。夏の高校野
球甲子園大会の実況中継だった。
「なによ、お父さん、せっかくいいとこなのに・・・」と母。父はい
つものように言葉すくなく「高校野球や」とだけ言った。
●しようがなくラジオに聞き耳を立てていると、箕島(みのしま)高
校の東尾修投手が投げていた。解説者がしきりに「東尾君、すごい」
と連発している。その年、初出場ながら箕島高校はベスト4まで進ん
だ。
●その秋、西鉄ライオンズ(現・西武ライオンズ)からドラフト一位
指名を受け、パリーグを代表するエースになる東尾投手。最近はプロ
ゴルファーの娘さんがタレントと結婚した。
●和歌山に箕島(みのしま)あり。
箕島高校はこの大会で鮮烈デビューし、のちに春夏あわせて四度の甲
子園全国制覇を果たす。
それは、ひとえに同校野球部の尾藤公(びとう ただし)監督の指導力
によるものと言いきっても良いだろう。
●もともとは京都の平安高校に行く予定だった東尾投手を「一緒に甲
子園に行こう」と口説きおとした。
「優勝を4回したが、ベスト4に終わった東尾のチーム(1968年)が最
強だった。それでも優勝できなかったのは自分の経験不足のため」と
語っている。
●その尾藤監督(68)が昨日亡くなった。
ぼうこう移行上皮がんだった。後輩監督が口々に悼んだ。
・智弁和歌山・高嶋仁監督(64)
ぼくも奈良の智弁学園から和歌山に来て、全然尾藤さんに勝てなく
て、尾藤さんに勝ちたい一心でやってきた。今あるのは尾藤さんの
おかげだと思っています。
・元PL学園監督の中村順司・名商大監督(64)
あこがれの監督でした。僕が高校全日本の監督を務めた98年も選手
選考で助けていただいた。そのとき、取材を受ける態度がよくない
と言われていた敦賀気比の東出君(現・広島東洋カープ)を「彼は
いい選手や。マナーは教えてやればいい」と勧めて下さった。実際
好選手で、チームの中心でした。選手を見る目も素晴らしかった。
・帝京・前田三夫監督(61)
私たちの目標であり、憧れの監督さんでした。「尾藤スマイル」で
有名になられた方ですが、正直あんなに笑って試合に勝てて、いい
なあと若いころはうらやましく思いました。それを目指してやって
きましたが、なかなかスマイルは出せなかった。グラウンドでは優
しい顔ですが、高校野球の姿勢には厳しい考えをお持ちでした。教
育の一環として、常に「正しくあれ」という姿を追い求めていた。
その心構えを教わりました。
・明徳義塾・馬淵史郎監督(55)
大事なところで選手を信じてどっしり座り、笑顔が印象的だった。
勝負に臨む時の顔が実にいい顔だった。こういう監督は2度と出な
いかもしれない。
●箕島高校と79年夏の3回戦で激突した星稜高校(石川)。
延長18回の熱闘は、高校球史に残る名勝負といわれている。当時、星
稜高校の監督だった山下智茂氏(66)は、そのときの思い出をこう語
る。
「18回の激闘、出会いには感謝しかない。人生観、野球観を変えてく
れた人生の宝のゲームです。雲の上の方で僕には偉大すぎる方でした
が、その後も兄貴のように教えていただいて…」
●ちなみに尾藤監督は1966年、23歳の若さで監督就任し、スパルタ練
習によってわずか3年目の春に同校を甲子園へ導いた。
スパルタは成果があるように思えた。
だが、甲子園ベスト4のあとは成績が伸び悩んだ。そして1970年代前
半に指導法に対して信任投票があり、その結果責任をとって一度監督
を退いている。
●同校を退任したあとボウリング場に勤務し、接客業などで人間的に
学ばれた。そののち、再び乞われて箕島高校野球部監督に復帰してか
らは、選手の希望もあって練習の厳しさは変えないものの、試合中は
いつも笑顔で接するようにした。それによって選手達はのびのびとプ
レーできるようになったという。その微笑みは「尾藤スマイル」とし
て高校野球ファンにおなじみとなり、他校の高校野球指導者にも大き
な影響を与えた。
(中略)
●高校野球関係者だけでなく我々に与えた影響は計りしれない尾藤公
監督。ご冥福をお祈りいたします。
竹沢さんは名古屋の方、和歌山や高校野球に縁のある方ではないようですが、
だれもが尾藤元監督について語るべきものを持っている、と改めて感じ入っています。
合掌
Posted by 一球入魂 at
15:14
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