2011年03月14日
怖い監督
和歌山にも少なからず被害をもたらしている地震。
実は私も、金曜日の午後、東京でこの地震に遭遇し、
地震の恐さと東京という都会が麻痺していく様子を
実感して参りました。
ここまで帰ってくるのも、ちょっと大変でした。
被災者の方々のご冥福と1日も早い復旧、復興を
お祈りいたします。
さて、20代の若き尾藤さんが、青年監督としてキャリアを
積んでいく様子が伺われる連載「尾藤魂」。
この時期のことを東尾修さんはこう回想しています。
2002年に廃止となった有田鉄道の金屋口駅から藤並駅まで行き、
紀勢本線に乗り換えて箕島駅で降りる。
通学時間帯は1時間に1本しかなく、2年生になってからは
1本早い電車に乗って学校へ行ってグラウンドを走った。
銀行を辞めて監督になった尾藤さんは昼まで米屋の配達をして
午後は私たちを鍛えてくれた。
若いし、とにかく張り切っている。練習は厳しく、きつかった。
そんな尾藤さんは後年、野球部の体罰について
「かつては私もやった」と打ち明け、こう語っています。
選手時代は捕手だった尾藤さん。走者を置いて打たれると、
投手ではなく自分がビンタされた。
「なんでおれが」と涙が出たが、でもそれを「暴力」「体罰」と
思わないほど、当たり前のことだった。
自分が指導者になっても、気がつけば同じことをしていた。
ノック前、捕手に言い含めておく。
「今日は『けつバット』するからな。痛そうにせえよ」。
そして内野手が気の抜けたプレーをすれば、代わりにたたいた。
「スマイルもけつバットも子どもと心を通じ合わせるためのもの、
相反するものではないと思ってきた」
そして
「体罰は容認すべきではないが、指導方法に明確な答えはない。
いま大切なのは話す力をつけることだ」
と結んでいましたが、引退後のこの言葉にも
監督という立場の難しさを感じます。
青年期の尾藤監督は、いかに成長していったかー
これからも楽しみです。
実は私も、金曜日の午後、東京でこの地震に遭遇し、
地震の恐さと東京という都会が麻痺していく様子を
実感して参りました。
ここまで帰ってくるのも、ちょっと大変でした。
被災者の方々のご冥福と1日も早い復旧、復興を
お祈りいたします。
さて、20代の若き尾藤さんが、青年監督としてキャリアを
積んでいく様子が伺われる連載「尾藤魂」。
この時期のことを東尾修さんはこう回想しています。
2002年に廃止となった有田鉄道の金屋口駅から藤並駅まで行き、
紀勢本線に乗り換えて箕島駅で降りる。
通学時間帯は1時間に1本しかなく、2年生になってからは
1本早い電車に乗って学校へ行ってグラウンドを走った。
銀行を辞めて監督になった尾藤さんは昼まで米屋の配達をして
午後は私たちを鍛えてくれた。
若いし、とにかく張り切っている。練習は厳しく、きつかった。
そんな尾藤さんは後年、野球部の体罰について
「かつては私もやった」と打ち明け、こう語っています。
選手時代は捕手だった尾藤さん。走者を置いて打たれると、
投手ではなく自分がビンタされた。
「なんでおれが」と涙が出たが、でもそれを「暴力」「体罰」と
思わないほど、当たり前のことだった。
自分が指導者になっても、気がつけば同じことをしていた。
ノック前、捕手に言い含めておく。
「今日は『けつバット』するからな。痛そうにせえよ」。
そして内野手が気の抜けたプレーをすれば、代わりにたたいた。
「スマイルもけつバットも子どもと心を通じ合わせるためのもの、
相反するものではないと思ってきた」
そして
「体罰は容認すべきではないが、指導方法に明確な答えはない。
いま大切なのは話す力をつけることだ」
と結んでいましたが、引退後のこの言葉にも
監督という立場の難しさを感じます。
青年期の尾藤監督は、いかに成長していったかー
これからも楽しみです。
Posted by 一球入魂 at
15:39
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