2011年03月10日
栄光の始まり

昨日の葬儀の様子が今朝の朝日新聞朝刊で詳細に伝えられています。
しかもドキュメント。目頭が熱くなる紙面です。
長男の強さんの
「父は、参列したみなさんと生涯のほとんどの時間を
過ごしたことを喜んでいたと思う。
しかし、家族との時間は、ほとんどなく、
寂しい思いをした。
父が初めて入院したときに父の時間を独占できた」
という挨拶や山下星稜総監督の
「延長18回の試合のことが、ここ2日間、夢に出る。
寂しい。宝物を失った」
というコメントが胸に染みわたりました。

そして、箕島高校野球部員に見送られた尾藤さん。
さて、
いよいよ東尾さんの自宅を訪れた今日の「尾藤魂」。
東尾さんは尾藤さんに箕島入りを進められたときのことを
こんな風に回想しています。
中学3年生になってやっとエースになったが、
せいぜい有田郡の大会で準々決勝がやっとだった。
それでも甲子園には憧れた。学区内の県立校は
耐久、箕島、吉備の3校。どこも強くない。
県内に野球部のある私立は高野山しかなかった。
近所に京都の平安で野球をやっている先輩がいて、
そのお父さんが「修君もどうや?」と声を掛けてくれた。
平安といえば名門中の名門。甲子園の常連校だ。
すっかりその気になった。「平安の試験に受かるのは大変」と
尻を叩かれて猛勉強した。
平安合格。京都の下宿を決め、布団も送った。
郵便貯金の口座もつくった。
卒業式を待つだけというときになって箕島高校の中島事務局長が
今度監督になるという人を連れて自宅にやってきた。
尾藤さんは当時23歳。熱心に誘ってくれるお二人を
私より先にまず家族が受け入れた。
特に祖父母。初孫の私はずっと2人の間で川の字になって寝ていた。
かわいい初孫をずっと手元に置いておきたい祖父母を中心に
家族がみんな箕島受験の流れになったころ、
中島さんの決めゼリフで私の気持ちも決まった。
「学校の裏にある有田川の堤防にバスをズラッと並べて甲子園へ行こうや」
私は下宿を決め、ふとんまで送っていた平安進学を断念。
急きょ箕島の入学試験を受けて合格し、
自宅から約1時間かけて通学することになった。
これは平成22年にスポニチに連載されたもの。
「尾藤魂」には、こんなサイドストーリーもあるわけです。
Posted by 一球入魂 at
10:56
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