2011年03月16日
甲子園へ
東日本大震災のニュースにやりきれない日々が続きますが
「尾藤魂」を読む間だけは、少しばかり癒されます。
箕島高校の甲子園初出場が決まった年、
その頃を東尾修さんはこう回想しています。
甲子園が身近に感じられるようになったのは
2年生の夏。和歌山大会決勝まで行った。
私は5番・ライト。のちに東海大から住友金属に進む
1級上の川端理史さんがエースだった。
けれども、この時は市和商(現市和歌山)に0対2で
破れています。相手チームの投手は、この年ドラフトで
阪神から1位指名を受けた野上敏夫さんでした。
新チームになって背番号1。学校の方も力を入れ、
秋季大会の前に初の県外遠征として岡山と東京に出してくれた。
岡山東商、日大三高、早実といった甲子園常連校と互角に戦い、
ちょっとした自信になった。
迎えた本番。和歌山大会決勝で星林を4対3で下して優勝し、
滋賀県大津市で開かれる近畿大会に駒を進めた。
滋賀県大津市の皇子山球場で行われた秋の近畿大会。
セ ンバツ出場が懸かったマウンドで私は快投を続けた。
まずは11月19日の1回戦。東山(京都)を相手に4四球は
与えたものの10三振を奪い、ノーヒットノーランを達成した。
打っては5番打者としてホームランを含む4打数3安打3打点。
投げて打って6− 0の決勝に貢献した。
23日の2回戦(準々決勝)では甲賀(滋賀)を1−0で下した。
2回無死三塁か ら私の左犠飛で1点を奪い、これを守り切った。
2四球の走者を許しただけで、8奪三振ながら、
またも被安打0に迎えた。2試合連続のノーヒットノーラン。
初めて全国紙の記者の取材を受けた。
ベスト4進出。もうセンバツ出場はよほどのことがない限り
間違いない。翌年は第40回記念大会で出場校枠が24から30に
広がる。近畿の4強なら安全圏内だった。
甲子園出場が事実上決まったのと同時に、うれしかったのが
琵琶湖のほとりの旅館にそのまま滞在できたことだ。
秋季大会は土日祝日に行われ、1回戦は日曜日。
2回戦は勤労感謝の日。準決勝・決勝は26日の日曜日に行われる。
大津は和歌山県から通えない距離じゃないが、
帰ってもまたすぐ行くことになる。
「帰ってこんでええ。ずっと泊まっとけ」ということになったらしい。
何かの大会と重なって九州への修学旅行に行けなかった野球部員に
とっては修学旅行代わり。
私は西鉄(現西武)に入ってオープン戦で卒業式にも出席できなかったから
余計に覚えている。仲間と一緒に過ごす夜が楽しかった。
準決勝の興国(大阪)戦では初回いきなり点を取られた。
先頭打者に死球を与え、3番打者には初被安打となる右前打。
盗塁もあって1死二、三塁から、のちにヤクルト、近鉄、西武でプレーする
益川満育に三遊間を破られた。
大会初失点。それでもこの最少失点でしのいだ。3−1の逆転勝ち。
すぐにダブルヘッダーの決勝戦が始まった。
中学卒業前にいったん入学を決めていた平安(京都)が相手。
連投の疲れもあって序盤に5点を失い、2−5で敗れた。
途中から外野に回った私は「あのまま平安に行っていたらどうなって
いたんだろう」と思った。平安のエースは左の池田信夫。
のちに東京(現ロッテ)のドラフト3位指名を拒否して
法政大学—大昭和製紙と進み、現在は拓大一高の監督を務めている。
高校の時点での力は池田の方が上。
箕島から誘われることなく平安に入っていたら控え投手だったか、
三塁手になっていたか。
いずれにしてもエースとして甲子園のマウンドを踏むことはなかった。
これはスポニチの平成22年の連載から転載したものです。
(無断ですいません、でもとてもいい記事なのでーーー)
因みに、厳しい練習の中、東尾さんは
投手だけが命じられる校外ランニングのとき、
「コースにあるみかん畑で1個、2個いただいては
のどの渇きを潤した」とも書いています。
同じ様なことを東裕司さんも語っていて、
打球がみかん畑に入ると取りに行って、いただいたりすると
監督に呼ばれ「おまえ食べたやろ」と指摘された。
ベンチに座っていてもサングラスの奥からちゃんと見られていた、と。
箕島らしいエピソードですね。
「尾藤魂」を読む間だけは、少しばかり癒されます。
箕島高校の甲子園初出場が決まった年、
その頃を東尾修さんはこう回想しています。
甲子園が身近に感じられるようになったのは
2年生の夏。和歌山大会決勝まで行った。
私は5番・ライト。のちに東海大から住友金属に進む
1級上の川端理史さんがエースだった。
けれども、この時は市和商(現市和歌山)に0対2で
破れています。相手チームの投手は、この年ドラフトで
阪神から1位指名を受けた野上敏夫さんでした。
新チームになって背番号1。学校の方も力を入れ、
秋季大会の前に初の県外遠征として岡山と東京に出してくれた。
岡山東商、日大三高、早実といった甲子園常連校と互角に戦い、
ちょっとした自信になった。
迎えた本番。和歌山大会決勝で星林を4対3で下して優勝し、
滋賀県大津市で開かれる近畿大会に駒を進めた。
滋賀県大津市の皇子山球場で行われた秋の近畿大会。
セ ンバツ出場が懸かったマウンドで私は快投を続けた。
まずは11月19日の1回戦。東山(京都)を相手に4四球は
与えたものの10三振を奪い、ノーヒットノーランを達成した。
打っては5番打者としてホームランを含む4打数3安打3打点。
投げて打って6− 0の決勝に貢献した。
23日の2回戦(準々決勝)では甲賀(滋賀)を1−0で下した。
2回無死三塁か ら私の左犠飛で1点を奪い、これを守り切った。
2四球の走者を許しただけで、8奪三振ながら、
またも被安打0に迎えた。2試合連続のノーヒットノーラン。
初めて全国紙の記者の取材を受けた。
ベスト4進出。もうセンバツ出場はよほどのことがない限り
間違いない。翌年は第40回記念大会で出場校枠が24から30に
広がる。近畿の4強なら安全圏内だった。
甲子園出場が事実上決まったのと同時に、うれしかったのが
琵琶湖のほとりの旅館にそのまま滞在できたことだ。
秋季大会は土日祝日に行われ、1回戦は日曜日。
2回戦は勤労感謝の日。準決勝・決勝は26日の日曜日に行われる。
大津は和歌山県から通えない距離じゃないが、
帰ってもまたすぐ行くことになる。
「帰ってこんでええ。ずっと泊まっとけ」ということになったらしい。
何かの大会と重なって九州への修学旅行に行けなかった野球部員に
とっては修学旅行代わり。
私は西鉄(現西武)に入ってオープン戦で卒業式にも出席できなかったから
余計に覚えている。仲間と一緒に過ごす夜が楽しかった。
準決勝の興国(大阪)戦では初回いきなり点を取られた。
先頭打者に死球を与え、3番打者には初被安打となる右前打。
盗塁もあって1死二、三塁から、のちにヤクルト、近鉄、西武でプレーする
益川満育に三遊間を破られた。
大会初失点。それでもこの最少失点でしのいだ。3−1の逆転勝ち。
すぐにダブルヘッダーの決勝戦が始まった。
中学卒業前にいったん入学を決めていた平安(京都)が相手。
連投の疲れもあって序盤に5点を失い、2−5で敗れた。
途中から外野に回った私は「あのまま平安に行っていたらどうなって
いたんだろう」と思った。平安のエースは左の池田信夫。
のちに東京(現ロッテ)のドラフト3位指名を拒否して
法政大学—大昭和製紙と進み、現在は拓大一高の監督を務めている。
高校の時点での力は池田の方が上。
箕島から誘われることなく平安に入っていたら控え投手だったか、
三塁手になっていたか。
いずれにしてもエースとして甲子園のマウンドを踏むことはなかった。
これはスポニチの平成22年の連載から転載したものです。
(無断ですいません、でもとてもいい記事なのでーーー)
因みに、厳しい練習の中、東尾さんは
投手だけが命じられる校外ランニングのとき、
「コースにあるみかん畑で1個、2個いただいては
のどの渇きを潤した」とも書いています。
同じ様なことを東裕司さんも語っていて、
打球がみかん畑に入ると取りに行って、いただいたりすると
監督に呼ばれ「おまえ食べたやろ」と指摘された。
ベンチに座っていてもサングラスの奥からちゃんと見られていた、と。
箕島らしいエピソードですね。
Posted by 一球入魂 at
19:06
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